みなさんからのメッセージです。(名簿番号と合わせてあります)
下記に寄稿された記事があります。

1. Guide Interprete National 習得しました。
2. ゴルフをいっしょにしましょう。
3. 指圧 します。
5. グループ旅行の企画をしています。
6. 法定翻訳します。(トゥールーズ控訴院)
7. 料理に興味があります。就職活動中。
8. トゥールーズ美容師、国家認定の免除を取りました。
9. フルートのレッスンをいたします。
12. 男の子がいます。
13. 髪のカットいたします。
17. 生け花はこちらへどうぞ。
20. 多くの方と出会えることを楽しみにしています。33歳、神戸出身・・求職中。
25. 学生アルバイトさがしています。お菓子屋さんで働きたいです。
26. 2001年生まれの女の子、2003年生まれの男の子がいます。美容に興味有!
32. 3歳の女の子、8ヶ月の男の子がいます。
35. 旦那はTOULOUSE出身の料理人です。
36. こちらで働いている方、どのようにお仕事を見つけられたかアドバイスを。
38. LOT県の小さな村に住んでいます。6歳の女の子、4歳の男の子がいます。
39. 息子も私も日本人の方々と係わりを持ちたいです。
40. 96'生まれの男の子02’生まれの女の子がいます。ハイキングに興味があります。
42. 2003年11月よりトゥールーズ中心地に住んでいる30代、男の子を出産しました。
44. 日本暮らしの長い主人と子供3人とともに2000年 に来ました。
45. 陶芸をしています。ろくろを使わない簡単なやきもの、子供から大人までどうぞ。
49. 組みひものアクセサリーを作っています。
52. 仏文学博士論文準備中です。趣味は音楽、美術鑑賞。山歩きを始める予定です。
62. コルシカ島から戻ってきました。息子が一人います。
63. アメリカから家族で引越して来ました。ゴルフの初心者です。
65. トゥールーズ中心に住んで 、 妻 と0歳の 子供 がいます。
68. 兵庫県西宮市から来ました 。トゥールーズ市内で日本レストランをやっております。 69. タキイフランス現地法人の責任者です。
70. 2009年4月末東京から来ました。夫婦とゴールデンレトリバー4歳がいます。
71. ノルマンディーから来ました。トゥールーズは活気のある街でワクワクしています。 73. 千葉県から家族できました 。2000年 2002年 生まれの 娘がいます。
74. 現在1歳になる 男の子 がいます。
75. 2011年4月に東京から来ました。30代の夫婦です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【フランスの 曲がり角から】 小畑 リアンヌ ~2011年3月まで の 連載。

フランス市民革命から学べることは

 

「全世界に知られている我々のノウハウはこのような立場の時こそ解決をもたらす」

と一月の国民議会で述べたミシェル・アリヨ=マリ外務大臣ではあるが左派や新聞記者にその3日前に崩壊したチュニジア前政府からの睡眠ガス等の注文を受けていたことが判明、追求された。結果的には発注されるにいたらなかったが前政権を支援したと見られ問題視され、その上去年12月の個人休暇で1956年までフランス保護領だったチュニジア共和国の旅行でベン=アリ大統領に近い事業家の自家用機での移動なども取り上げられついに更迭と言える辞任に追いやられたことは知られている。

 

アリヨ=マリ女史が2002年にフランス史上初めての女性の国務大臣として起用され内務大臣へ、その手腕を認められて去年11月からは外務大臣へと登りつめて行っただけにサルコジ大統領は今回の件を重視しテレビ中継という形を取って国民に説明した。

 

それだけに世界の情勢は大きく変ってきている。もしチュニジアから派生した反政府デモの革命がなければ今回の大臣のことは問題にもされなかったに違いない。

 

記者の質問に応じたフィヨン首相は「フランスのイメージのために進むべき道が狭まった」と前置きし、「我々が取った今回の決定はモラル上ではなく政治的なものだ」と発表している。20年もの間政治に忠実に携わってきた女史は運が悪かったとはいえ当然のことかもしれない。次の日のテレビイタビューで今まで休日がなかったので?これからは大いに楽しみたいとも語り、本も書くつもりであることを述べた。

 

アラブ諸国で起きたいわゆる“ジャスミン革命”は全世界に広まり今日も続いている。フランスでも毎日のように各局で放送されている。フランスで一般の家庭の夕食に招かれたとき、本来政治の話はタブーとされているにも関わらず今回のアラブ諸国で起きている市民運動には殆どのフランス人が黙っていられない様子でアペリチフの段階から会話が始まる。これまでアフリカ諸国と深い政治、良好な経済関係で結ばれてきただけに、人々の関心の高さをうかがわせている。

 

よく外出のとき車の相乗りをしている60歳を過ぎたアニーはアルジェリア生まれのフランス人。何度もチュニジアへも旅行していたと言う。旦那はモロッコ生まれのフランス人、隣の住人も確かモロッコ生まれのイタリア系だと話していた。パリの現市長はそれこそチュニジアのチュニス市生まれだと今回の市民運動が勃発したとき、堂々とテレビに出演しとても気がかりだと話していた。

 

今回の市民改革、どこか1789年に起きたフランス革命と似通っていないだろうか。

 

経済が傾き始め、啓蒙思想が人の口から人の耳へと入ってきたとき、ふと自分たちの回りを見れば整頓された観光地で資源の原産国であるにもかかわらず他の国に比べ生活水準の格差は格段に広がり一般市民は恩恵を受けていない、仕事もない。共和国とはいえど何十年も独裁的な国の長や一部の権力者たちなどがその富を独り占めに裕福の限りを尽くしている。

 

1780年代のフランスでは45億リーブルというなんと歳入の9倍の財政赤字を抱えていた。税制改革で特権を持っているものも痛みを分かち合うべきところを、一部構造改革を進め、経済効果としてリストラや募債に取り組んだが結局は失敗に終わり赤字幅を逆に膨らませてしまった。

民衆は我慢できなくなっていた。714日バスティーユに集まった人々はあっという間にフランス全土へと広がっていったのはいうまでもない。

 

あれから200年以上の月日が流れた。経済とは世の中の資源は有限であり希少性があるから交換、分配のプロセスを生んできたのではないのだろうか。「祇園精舎の鐘の音、」ではないが「たけき者もついにはほろびぬ」歴史は繰り返すと言う言葉を我々は知っている。

 

経済の安定とは言い換えれば人々の安心から生まれるのではないだろうか。土台を支える国民をないがしろにして経済は発達しない。我々のノウハウと大臣は述べたがフランスこそ自由、平等、博愛の国旗がひるまないように願ってやまない。

 

くじらが空を飛ぶ街

 

フランス第4番目の都市トゥールーズは2011年に入って益々活気づいてきた。

 

レンガ造りの独特の外観を持つ建物が多く、空から見ると全体がピンク色にかすんで見えるので、別名“バラ色の都市”とも呼ばれている。ボルドーまで流れ着くフランス五大大河の一つであるガロンヌ川の周辺で染色工場などで栄えてきたミディ=ピレネー地域圏の首府でもありオート=ガロンヌ県の県庁所在地でもあった。

17世紀にピエール=ポール・リケが発案した地中海まで延びるミディ運河によって商業大都市に発展してきているものの今日でもパリ=トゥールーズ間の直通のTGV(高速鉄道)が未だ開通していないためか人々の間ではよく「陸の孤島」と言われる事もしばしばあった。

 

その後、歴史的に航空便の中継地の一つになり、地方分権の時代に航空技術、宇宙開発の産業を迎えたことによりたちまちフランス国内でも安定したメトロポリスの一つとなった。

 

今回、街が活気付いたのは世界の不況の中でもトゥールーズ市近辺にある企業のエアバス社はインドのインディゴ社からも始めての大量の航空機の注文を受け、それに伴い今年はフランス国内の製造リズムを上げるため3000人規模(うちフランス国内1500人)の新雇用を打ち出したことによる。

 

「我々は5万4千人の従業員を持つ企業になった」と年初恒例の総括演説で人事部長がまず評価し挨拶が始まり、次に「我々の努力が実ったことを喜ばしく思う」2007年から2010年まで行われた5000人規模の人員削減も含まれた“パワー8 ”計画を継続したことにより2010年までのリストラの効果に言及しながらも50億ユーロの目的も十分達成できた。計画は“パワー8+”として引き続き行われるが「2011年は人事の上で問題がないだろう」とトム・エンダース社長が締めくくった。(リベラション紙より)

 

先週、散歩がてらプラタナスの木が両面に植えられた運河に停留する船などを見ていたら、水に映し出された影を追って横を歩いていたダミアンが空を見上げて急に大きなこえで叫んだ「見てご覧、クジラが飛んでいる」なのに道行くトゥールーズ住人は誰も驚かない。

 

以前はボーイング社が開発したスーパーグッピーと呼ばれるC-97機を改造して作られた貨物輸送機がトゥールーズ上空を飛んでいたがいつの間にかエアバス社が自ら開発したベルーガ(シロイルカという意味で銘銘された)という輸送機に置き換わっている。貨物室容量が1400㎥あるベルーガは旅客機の胴体、主翼などの大物部品等をトゥールーズやハンブルグにある工場の最終組み立てラインへ輸送するためにA300機を改造して作られた。この巨大な輸送飛行機をこの街の人は親しみを込めてシロイルカではなく鯨と呼んでいる。

ベルーガは部品の輸送には留まらず日本で開かれた美術展にドラクロワの絵画“民衆を導く自由の女神”を輸送するために成田国際空港に飛来したこともある。

 

大学、専門学校などを卒業した若者は就職先を求めてこの地に集まってきて新住民となるため堅調にオート=ガロンヌ県の人口増加につながり現役労働者の有資格レベルを上げてはいるが、一年前からトゥールーズ第一大学のマスターに入り直して就職活動をしているエンジニア資格を持つダミアンは25歳になったばかり、研修先にと何度かエアバス社に知り合いを通じてまたは自発的に募集広告が出るたびにインターネットで履歴書を送付してもいまだに就職への面接にすら至ったことがないと嘆いている。同じクラスに通うコロンビア出身のエジベルトも去年ナント市の航空大学の機械のエンジニアコースを出てこの街に就職先を求めてやってきたが、見つけた研修先はエアバス社ではなく中堅下請け会社だと話した。

 

1500人の雇用があると期待を持っていても、実際には毎年、エアバス社から年金者になる通常退職者が1500人ほどいるためそれほどの受け入れが出来ている様子ではないらしい。“夜間飛行”の小説家でありながらパイロットとしても有名なアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリはここに集まってくる若者のようにトゥールーズの空を見上げていただろうか。新住民の彼らにとって空の道は狭くて厳しいようだ。

 

なのに今日も若者たちの夢を乗せこの青い南仏の空にくじらは自由に泳いでいるようだ。



電気代の値上がりにワイン

 

今年はサマータイムが10月31日(ハロウインの日)に終わりを告げた。心ならずも時計の針を一時間早めると急に日が短くなるように感じたかと思うと次の日はトゥーサン(万聖節)の祭日、全ての聖人の祝いの日であるがフランス人はその日に自分たちの家族、祖先のお墓に赤、白、黄色などの色鮮やかな菊の植木鉢を備えるのが慣わしになっている。万聖節が終わるころからフランスではなぜか急に冬の暖の話が始まると言っても過言ではない。

 

長い冬をどう過ごすのか。暖房はどうするのか。エネルギー対策の一環として太陽熱の集熱パネルの設置、暖房効果を上げるニ重層で出来た窓の交換、エネルギー効果大の暖炉設置などに掛かる経費に国は40%までの税金の返金を実行して来た。

 

そして今年もまた人道的に冬の期間の10月30日から来年の3月15日まではいくら賃借人が家賃を滞納しても法律上家主は賃貸物件から追い出すことが出来ない、また電気代をいくら滞納してもその期間は暮らしていける最低必要の電気量は残して電源を切らないという対策は続いている。フランスならではの自由、平等、博愛の精神ではないだろうか。寒い冬に人間として生きる権利を認めることは本当は世界中で行われなければならないことだろう。

 

少し見直したくなる政策があるのはいいとしても、おりしも年金問題で10回にも及ぶ全国での公私ともどもの組合、会社員、学生、高校生のデモストライキと混乱している最中、またもや公共電気料金の値上がりがいとも簡単に承認されたことを国民は承知しているのだろうか。財務大臣のフランソワ・バロワンは来年の1月から3%から4%の電気料金の追加値上げが確実になったことをヨーロッパ1というラジオ番組で10月27日の水曜日に発表した。その原因は2007年10月 の“グレネルの緑の革命”と呼ばれている環境への提言の方向性として掛かる経費や太陽光発電による電気の一部を一般家庭から余剰分として電力会社が買い上げるための費用に適用されると述べている。

 

税務大臣は本来、環境保護主義者のニコラ・ユーロの分野にまで踏み込んで環境対策を旗に掲げて示したことになる。2007年、当時の大統領選でニコラ・サルコジ現大統領も社会党の大統領候補だったセゴレンヌ・ロワイヤル女史もエネルギー問題はそれぞれの陣営で政策に掲げていただけに誰も反対するものはいなかったのだろう。

 

半年前に電気代が3%値上がりしたときには2003年以来の値上がりだと国民は驚いた。今回の値上がりが来年1月に実行されれば一年も経たずに合わせて6%から7%の値上がりということになるから実に30年間で一番高い上昇率となった。

 

その代償として、フランス最大手の電力会社EDFは市場より10倍も高い価格で一般家庭から発生した太陽熱による余剰電力を買い上げなければならないという義務も課されることになったが6、7%自体の電気代の値上がりはこの不景気の中でフランス国民にとってまともや痛いものになった。

 

パリの11区の狭い30平方メートルのアパートに住むセリーヌとジョンの若い夫婦は寝るとき以外はよほどの寒気が来ない限り節約のため電気暖房は切ってある。彼らは壁も薄くセントラル暖房がない東京の古い家屋に2年近く住んだことがあるので、日本に比べればどってことがないと言う。窓はオスマニア建築とまではいかないがパリ様式の石作りの建造物なので保温用の改装がされていない。薄い一重の硝子窓から寒い空気が入るので分厚いカーテンで閉めてはいるが寒波のときはやはり電気代は掛かりそうである。

 

ジョンはフランスで今年流行の薪で燃やす低価格のストーブを取り付けたいと思っていたが、パリの屋根裏部屋の火災が多いのでアパート事情がそれを許してくれない。

 

残る策はワインを飲んで温まること、11月の3週目の木曜日に解禁になるボジョレー・ヌーボーを楽しんで温まるさと気軽に言ってのけた。この地球上でフランスよりも日本が先に飲めるらしいと知っている彼らは暖房をつけないで“日本、ニーモウベイ(日本風も悪くない)”本当は“ニーボン、ニーモーベイ”(良くも悪くもなし)ということわざではあるが、彼らなりの高騰した電気代に対抗して別のエネルギーのとり方なのかもしれない。だが今年ワインフェアで買い込むボジョレー・ヌーボーはこの分では来年まで持つかどうか定かではなさそうだ。

ル・グランド・パリ計画はいずこに

 

2011年が始まった。恒例の歴代大統領の年始の挨拶を就任以来12月31日に変更したニコラ・サルコジ大統領のフランス国民に向けた演説がテレビ中継された。これで4度目の演説となるが今年は生中継ではなく一時間前に撮影されたものらしい。最初の出だしから年金制度改革のことを必要な政策であり税金の配分によって年金システムを救ったと断言し強調した。

 

フランソワ・ミッテラン、ジャック・シラク前大統領たちは政治手法の他に必ずや後世に永久に名を伝える偉大な功績と思われるものを残してきただけに現大統領も2007年6月に膨大な資金が必要とされる“ル・グランド・パリ計画”を掲げたが今回の演説には触れなかったことが少し気になった。

 

パリ市をより拡大する“ル・グランド・パリ計画”というニューヨーク、ロンドン、東京、香港、上海の5つの大都市を意識した構想は別に今始まったことではない、なんとナポレオン3世のころからサン=ジェルマン=アン=レーやマルヌ=ラ=ヴァレ地方にまで広げる計画はあったらしい。今回はパリを含むイル=ド=フランス地域とその近辺の4つの地域まで大都市化する超人的な計画である。

 

2008年から担当している国務長官のクリスチアン・ブロンが進める交通計画は130Kmにも及ぶ9地点をつなぐメトロの自動システムには350億ユーロの破滅的な資金が導入される。その賛同を取るために2011年2月1日に公開で議論が行われるというが、それは国民に計画がどのように推し進められていくかという説明に過ぎないだろう。大統領が行おうとしている計画は決まれば10年以上の年度が費やされる。おりしも2012年には大統領選を控え次の候補者に引き継がれていく、現大統領が再選されなくとも一度決められた計画はそう簡単にはストップさせることできない。そして国民にはまた新しい税金が追加要求されるだろう。

 

国がやらなければならない数々の問題、たとえば社会保障、公共建設、貧困との戦い、警察などの強化などキリがないほどあるにもかかわらずこの計画に恩恵を受ける個人や、企業から資金を集め事業を進めていくのだろう。

 

話は変るが、去年の暮れ美術館や、セーヌ川からベルサイユ宮殿やパリ市まで引かれた水道歴史展を見学しているとき、パリジャンやパリに暮らした日本人、永井荷風、横光利一、石黒敬七、藤田嗣治などのことがふと頭に浮かんだ。明治時代から数え切れない日本人はパリを訪れ、パリを愛し、パリに学び、パリに翻弄された。その時画家である佐伯祐三の足跡を訪ねて歩いたことがある。

 

最初のモンパルナス大通りの前に立ってここが佐伯が住んだ最初の建物かと見ていると何人ものパリジャンが話しかけてくれた。マリー=ローという老婦人は日本の有名な画家が住んでいたことを光栄だと話し、近くの藤田の住居、佐伯が住んだと思われる奥の建物が1926年に建ったのだということも教えてもくれた。そして50代の男性も20代の女性も同じ場所に1915年に文学ノーベル賞を取ったロマン・ローランドもここに住んでいたので記念に建物に表示してもらったと言い、パリを誇りに思っているとも話してくれた。

 

今はひっきりなしに横断する車の大通りであるがあの時代のことを思うとなぜかレトロな気分に浸った。

 

画家が住んだ次の住居を探し当てようとシャトー通りに入ったのはいいが道が途切れ、巨大なロータリーが現れ、ガラス張りの近代的は建築物が立ち並んで様相が一転した。その先にはなんとエッフェル塔がシャイヨー宮を足元に聳え立っていた。別の角度から見る塔には感激した。しかしなぜ佐伯祐三は一度もエッフェル塔のことには触れなかったのだろうか。この鉄の塔がいまやパリでの一番の観光の場となっているというのに。

 

不況と財政難で世界中が大変なこの時期に推し進められる“ル・グランド・パリ計画”は果たして永代語り継がれていくのだろうか。大統領にとってこのヴィジョンが見えていると言うことなのだろうか。フランス第五共和政で一番支持率が低いとされているサルコジ大統領、去年の反対運動に聞き耳をもたなかったとして新年早々からテレビではCGT(労働総同盟)会長のベルナール・チボー氏が大統領府で開かれる新年パーティの招待を始めてボイコットした前代未聞のニュースが流れた。

 

パリの、いやフランスに住む人々にとって空想よりも誇りに出来るものが別にあるのではないだろうか。

上がる地方税に対策は!

 

パリのアパート探しは本当に大変だ。テレビでは秋の新学期にやってきた学生、若い就職者などのアパート探しの特集をしていた。

 

屋根裏部屋の15M²ほどの間取り、いわゆる最上階の女中部屋と呼ばれている7階のエレベ-タ無しのところでさえも狭い階段を行列が出来る。それが一階の歩道にまで続く光景をニュースで映し出している。その中から幸運にも選ばれた若者はこれから保証金、家賃などの支払いと保証人、各種の証明書の提出が課される。年々厳しくなっているフランス住宅事情、だがここにもパリジャンが慎重にならざるを得ないいわれがあった。

 

今年も住居税、固定資産税(小学館ロベールの仏和大辞典では建築地税に訳されているが)を払う時期がやってきた。フランスではそれらを合わせてアンポ・ロコー(地方税)と呼んでいる。

 

毎年上昇していく税金、フィガロ紙によると今年は平均3.7%から3.9%の増加に留まったとあるが地方によってはその差が実に激しい。パリ近郊のモントルイル市(セーヌ=サン=ドニ県)は10.3%、南仏のペルピニャン市は8%らしい。

2009年の全国平均の6%に比べれば低いといわれようがその年の物価上昇率から割り出しているから去年の物価上昇率が2.5%に対し今年は1.2%のなのだから半額になるかといえばそうではない。

 

そして、10月に発表された固定資産税研究所(ル・パリジャン紙)によれば建物の持ち主にとっては驚くべき数字が示された。2004年から2009年の5年間でこの税の上昇率が最低の地方でも11%、最高で65%の増加となったのだ。なんとパリでの増加がこの65%らしい。

 

しかし65%上がったとはいえパリに65M²のアパートを持つ知人は固定資産税として今年660ユーロを支払ったと言っていた。ところがボルドーに住む知人の方は半分以下の30M²のアパートなのに600ユーロほどの支払いが来たと嘆いていた。この格差はいったいどこから来ているのだろう。

 

それはこの税金には確固とした全国法の規制がなく自由に地方の財政によって決められるからでもあるが、それぞれの地方は市町村税をパリに比べて3倍から4倍ほど高くしている、また地方では別に付加された市外市町村税の項目すらあった。つまり地方に住んでいるものは首都に対して払う税金があるがパリに住宅があるものは地方に税金を払う必要がないからだろう。

 

今年行われた住宅改修などの税控除のカットで収入税負担を一般家庭に増やしても財政赤字は解消されない。パリの上昇は地方税のうちの職業地に対する税などには手を入れれない事情もあり、公共事業の多様化、地方のやっかみも考慮して確実に取れる税金をということらしい。

 

この地方税はどの時点を基準にして決めているかといえばフランスは1月1日時点で住居税に関しては住んでいたもの、固定資産税は持ち主であるものとなる。

 

借りる方もその点を知ってかボルドーのアパートを貸している知人は去年学生が住居税逃れだろうか師走の忙しい中、12月31日付けで出て行ったと嘆いている。その後契約した賃借人は1月末からになってしまったらしい。国は税金を取ろうと躍起になっている。家主の方にそれを課そうしているらしいが、家主も払う気はない。手紙の応酬が今でも続いているという。

 

そういえば、渡仏してきた20年以上も前パリで借りるアパートを探した記憶がいやおうなしでも蘇ってきた。当時もアパート探しは大変だった。代理店に頼んだこともあるが、アパート見学の日はやはり10人以上の人がもう列を作っていた。見学に与えられた時間は5分ほど、いくら気に入ったからと言って保証人のいないものにとっては賃貸借契約までこぎつけるほどにはいたらなかった。

 

落胆が先に走ったが、通い始めたアリアンス・フランセーズという語学学校になんと賃借人として日本人募集の広告を目にした。苦情を言わない、払いのいい、安心して賃貸できる国民性と言うことだったのだろう。飛びつたのはいいが、契約書もなく2月末から入りその年の12月中旬で出て行ったのにも関わらず、住居税として家賃の二倍を何故か請求されたのを今も覚えている。

バカロレア(大学入学資格)は取れど、、、

 

フランスは新学期が始まり、それぞれの学校の入学、通学などが始まった。

今年は高校までの生徒など合わせて千二百万人が学校の門をくぐることになった。

9月末には次々と大学やエコール、専門学校などの門が開かれていく。

 

教育省が7月21日に発表した今年のバシュリエ(大学入学資格者)は一般、工業、専門(農業系を含めない)を合わせて85.4%となった。この数字は2009年より0.6ポイント減少したが2007年度の85%と比べると今年は特別な年でありながら順調な滑り出しであるといえよう。しかし一般バカロレアだけを見ると87.2%の修得率でこちらは2009年よりも1.6ポイント低い数字となる。

 

そして毎年のように送り出されたバシュリエたちは全体でいまや65.4%とその数字も高くなる一方で大学の学士資格にまで進む学生は入学時に比べ半分に過ぎない。残りの学生は就職を希望する。どちらにしても次々と就労可能者がフランスの社会に送り出されている。

 

ひと昔、エティエンヌ・シャテリエーズ監督の“タンギー(TANGUY)”というフランス映画が話題になったのをご存知だろうか。

28歳になっても親元を離れようとしない息子の追い出し作戦を展開していくコメディ映画であったが、フランスでも近頃はこういった親元を離れずひとり立ちの出来ない若者が増えてきたのは確実である。

 

タンギーはパリにあるフランス国立東洋文化研究所の講師まで勤め、それ相当の収入がありながらやさしい親元を離れない、いわゆる徹底的な“最愛の息子”であったが、いまやフランスではバカロレアは取ったけれど、大学を出たけれど、、、若者の就職先がかなり厳しくなっている。もともと就職に関しては企業に新卒枠などを設けていないフランスでは卒業と同時にその他大勢の就職活動者となり経営者はその中で経費節約のため即実践能力のある実務経験者を優遇するという悪循環が起きている。

 

経済、財政相のクリスティーヌ・ラガルドは9月に失業者率が第二四半期9.3%(海外県を含めると9.7%)と二期連続確実に減少しているという見解を示したが、世界恐慌が来る前の2008年初期には7.2%なのだから確実に増えていることは間違いない。また15歳から24歳までの若者の失業率は23.3%(63万2千人)2009年末の累計では24.1%に増えている。今回の減少は不況で一時的に取らされていた期間失業者の50代以上が再就職できたという条件が失業率を押し下げているに過ぎない。

 

いずれにしてもメトロポリス(大都市)に住む330万人の失業者の意識調査では仕事をしたい、それが今すぐということでもなくても、今後も探し続けるという前向きな心理であるという結果は「明るい光り」が見えていると言えると閉めくくっている。

 

友人夫婦宅に同居の彼らの最愛の息子ダヴィッドは現在24歳、エンジニアの学校を出てから就職探しを一年続けているが明るい兆しは見えてこない。一人暮らしをして生活保護を受けるには25歳(一般支給開始が25歳以上)という壁があり、それも出来ない。その余裕もない。

 

「僕はタンギーにだけはなりたくない」と就職活動をストップさせて大学に戻り、今度は技術系ではなく経営の勉強を一からやり直したいと本人は思っているらしいが失業手当てをもらっている母親は「タンギーにはまだ仕事があったのよ」と息子を一括した。

 

フランス年金改革計画、9月議会の討論の行方は、

8月に入って、恒例のそれぞれの内閣の大臣のヴァカンスが今年も始まったが、労働大臣の関与も表面化してきた化粧品会社ロレアルのオーナー、ベタンクール疑惑、不況の中、改革を迫られている年金ではあるが、国民の目がどこまで許すか、休日明けは重い日々が続きそうである。

 

さて、主な年金改革計画の方向性はすでに決まっている。この計画の焦点が当てられているのが年金受給資格の法的年齢の段階的な引き上げ政策である。しかし、この政策は1951年7月1日生まれ以降の保険加入者についてのみ関係がある。それ以前に生まれ、まだ年金者になっていない保険加入者は彼らがどの時点で年金者になろうとも、この改革に関与してない。

 

これにともない労働期間の延長も行われる。

それぞれの年代に4ヶ月加算されるので、1951年7月1日から12月生まれは60歳4ヶ月に、1952年生まれは60歳8ヶ月に、1953年生まれは61歳になり1956年生まれが62歳になるまで追加されることになる。満額支給年金年齢も機械的に同じリズムで増加される。つまり1953年生まれの年金加入者は65歳から66歳に、1956年生まれの年金加入者は67歳に引き上げられる。このように満額支給を受け取れるための必要とされる保険期間も同時に引き上げられる。この目的は1958年生まれの年代が2020年までに166四半期になるように示されている。今後1951年、1952年生まれの年金加入者がそれぞれ163、164四半期に、1953年、1954年生まれは165四半期が満額必要期間と決められている。それ以降の誕生年代については示されていない。

事務職などのカテゴリーの公務員についても今日60歳定年となっているものについては同様の取り扱いになる。また、活動的なカテゴリーの公務員については職務により年齢は変わるが年金開始年齢が50歳のものは、今までに述べた同じリズムで52歳に引き上げられ、満額は55歳から57歳に同様に引き上げられる。

賃金労働者、それ以外の者であっても20%以上の就労不能のものについては例え保険加入者期間が何年であろうと法的年齢の60歳定年を満額として確定することが可能である。

 

税金は年金者の供給に小額献金なのか。

年金システムの財政の強化、その他複数の財政案が検討されている。家庭の当面の問題はこの法案が最終的に所得税率の増加の点を予測している。(40%から41%の税率になる)その他、譲渡時の動産の増加額に対する税率、源泉徴収の税率にも、選択権付き取引、財政上の投資の利益配当や利子も18%の税率から19%に引き上がる。(社会福祉税を合わせると31.1%になる)譲渡時の不動産に関しては今後増加額に対する課税は16%から17%になる。(社会福祉税を合わせると29.1%になる)

 

また、所得の段階的税額表にある配当の課税に対して独身に上限115ユーロ、夫婦またはパックス者に上限230ユーロの税額控除さえなくなる。しかも、動産価格の譲渡時の増加額に現在25830ユーロまでと固定されている課税されない限度額が無条件に取り外される。これからは社会福祉税のように譲渡時の1ユーロからの所得にまで税金の対象になる。(Le Particulier 2010年7月8月スペシャル号より)

 

相互保険会社に勤めるジスレンヌは現在58.5歳だが休日返還、子育て期間の免除などの会社との交渉で今年2月の誕生日に職場の祝金なども受け早期退職者になったにも関わらず、9月に始まる議会の裁決によっては後8ヶ月の追加労働を強いられる。そうなればまた会社に戻らなければならないと嘆いた。



はじめまして。【田舎暮らしのエミコ】です。オシャレなパリから○○㌔離れたド田舎より、 フランス実生活密着レポートお送りします。どうぞよろしく。

3 ~~フランス自動車物語

私たちは自動車に特別なこだわりはない。動いてくれて、価格が安ければ文句なし。
日本にいたときは常に、 近所の自動車修理店で買った安物中古車だった。何の支障もなかった。 この国に来てまず車を購入。田舎暮らしは車なしでは一日たりとも立ち行かない。プジョー505。銀色の車体で、 かつての高級車だったそうだ。自動車修理店の隅っこで長い間野ざらしになっていたものだ。

日本だったら逆に お金を払って引き取ってもらうような代物にしか見えなかったが、立派なお値段であった。 さてこの車。購入当初4つのドアはまともに開閉ができた。それが支払いを済ませたとたん後右ドアが開かなくなった… それを筆頭にいくらお金をつぎ込んだことか。エンジンがかからず、車を押すこと果たして何回。 ある時高速走行中、突然ガラガラと妙な金属音が。慌てて止まると、車体の下で排気管が半分落ちていた。 またある時は人家もまばらな真夜中の田舎道。突然のパンク。買い換えたばかりのタイヤが、 中から鉄が飛び出してズタズタになっていた。原因は両タイヤのバランスが悪かったためらしかった。 そのちょっと前に車検に出したばかりなのだが。 夫が坂道停車をした時、サイドブレーキを思いっきり引っ張ったら…ぶち切れた。ギアはヘロヘロになって抜ける寸前…で、 ついにお釈迦。
その車と前後して(子沢山の田舎暮らしに車2台は必需品)韓国製ガス車を友人から購入。まだ2~3年しか乗っていないピカピカの 真っ赤な車である。今まで私たちが車購入に払った最高額である。実は私たちは環境にもかなりうるさい。 「ガス? 何てクリーンな燃料♪ ガソリンと比べて燃料費も格安だし」 …ってこの車、友人の話だと今まで一度も問題なかったとのことなのだが、ウチに来た途端、壊れる、壊れる!! 長距離走って帰ってくると、その都度、文字通り『動かなくなった』。 その都度修理をし、この車、コンピュータ制御で、1ヶ所具合が悪いとその部品が納まっている全体を交換しなければならないとかで、 従来の車と比べて修理費の桁が違う。謳い文句は『無公害の節約車』らしいが、お金を湯水のごとく使う車であった。 買ってから4ヵ月後、完全に、死んだ。
動かない車は巨大ゴミである。この韓国のメーカー名を思い出すたびに腹が立つ。 死んだプジョー505の後釜にフォードを買った。結構調子よく乗っていたのだが、冬の寒波で、バッテリーの充電部分が壊れた…らしい 。聞くところによるとAさんのも、Bさんのも、Cさんのも…って、ちょっと寒いからってこんなに壊れていいのか? 不良韓国車の後に地元フランスのルノーを買った。新中古車で、ほとんど新車に近い高値…これが、半端でなくガソリン喰う。 燃費って、車種によってこうも違うとは知らなかった。今は運転席の窓ガラスが動かなくなり、つっかえ棒で固定したまま…ため息。 この国に来てから、車についてメチャクチャ勉強した。でも周囲のフランス人も同様のようだし…ウチだけが特に不運ってわけでも ないような?

ところで、お釈迦になったプジョー505、まだ売れるのである。買い手はアラブの貿易業者。彼らは最近の車には関心を示さない。 (ちなみに不良韓国車は最後はスクラップとなった) なぜなら新しい車はコンピュータ制御なので、壊れてしまうと専門家でないと手が出せない。けれど昔ながらの車は、 車に詳しい人間ならば自分で直せる。自分のところで修理してアフリカで売るのだそうだ。かの地にはまだ車検がない。 私たちを散々嘆かせてくれたプジョーもまだまだ現役なのである。ああ、アフリカ! いったいどんな車が走っているのか?  …眺めてる分には面白そうな。

2 ~~マンガから見る日本語の特徴~その1

長女がリセに入学した。新しい環境に入るのを不安がっていた娘をあれこれ励ましての入学だった。 中学に続き寮生活である。
帰ってきた娘に「どうだった?」と聞くと「みんな日本のマンガが好きなんだって」
「私が『日本人だ』って言ったら『ワァ!』って。日本へ行きたいとも言っていたよ」
ここでもマンガのおかげで娘はすんなりと新環境へ溶け込むことができた。 5年前この国に来たときもそうであった。当時はポケモンが大流行。
我が子たちは仏語が一言もしゃべれない状態だったのだが
「日本から来たの? 日本のポケモンカード持ってる!スゴイ!」と大歓迎。
あっと言う間に仲間に入れてもらい、日本語の歌を歌ったり、日本のゲームを教えたり。 何とかこの地への軟着陸に成功して親としてホッとしたものである。

私もマンガ大好きである。活字中毒で何ても読むがマンガ歴もゥン十年の、 マンガマニアの数歩手前でもある。こちらに来てからも実家に送ってもらったりしてひっそり読んでいた。 それが何故マンガ大好きカミングアウトしたのかと言うと。 ある日、中国旅行から帰ってきたフランス人の若い友人が、
「黒と白の駒があるゲームで」
「え? 碁のこと? え? 囲碁やるの?」
「え? 恵美子もやるの?」
「囲碁はやらない。でもすごい面白い囲碁のマンガがある」
「え?マンガ?マンガ読むの?」「え?マンガ、知ってるの?」
ということで私のマンガコレクション を披露したら
「ウギャ~!エミコのとこには山のようなマンガ本が」
パリなどの大都市はともかくこんなド田舎でマンガを知っている人間と遭遇するとは
以来芋ずる式にマンガクラブに招待されたり、あちこちから日本のアニメビデオが集まってきたり
イヤ、こんなにマンガについて話したこともアニメを見たことも初めての経験であった。
齢40 ゥン歳にして突然花開いたマンガ人生、、、 読んでてヨカッタ。
しかし 20歳前後のフランス青年と「ルパン三世」の峰不二子ちゃんの話ができちゃうんだものなぁ。 考えてみれば変な世界である。

さて、仏語の勉強のため、と日本のマンガの仏語訳を読み出した。
そんな中で徐々に今まで意識したことのなかった日本語の特徴というものが見えてきたのである。 日本語には「ひらがな」「カタカナ」「漢字」の三種の表現文字が入り混じっている。
この内「ひらがな」「カタカナ」は表音文字。すなわち、しゃべり言葉をそのまま文字にすることが可能。 例えば、「あ」の一表現にしても、「あ」「ああ」「あ~」「あっ」「あぁ」そこにカタカナ・ 漢字も加わって 無数に表現方法が広がる。このしゃべり言葉をそのまま『目に訴えることができる』というのがミソ。 登場人物の個性を言葉で『見せる』ことができる。
それと「漢字」により新たな熟語を生み出すことも簡単。「るろうに剣心」の「逆刃剣」なんてsabre à lame à l'inverséですよ。 長い!
他にもいろいろ特徴はあるのだが、要するにこの日本語の特性がマンガという表現方法とピッタリ合致したのだ、 それが手塚治虫を初めとする歴代の先生方によってひとつの「文化」となるまで深められていったのだ、と。
その恩恵を、こんな異国のド田舎に住む私たちも受けているわけである。
子どもたちは鼻高々である。 ありがたや、あるがたや。
ところで、この一字で一音を表す文字は、日本語以外にも存在するのであろうか? 
誰かご存知でしたら教えてください。

           1 ~~フランス語

     私はこの国に来て5年目になる。フランス人の夫とは日本で知り合っている。 彼の日本生活は長く、日本語ペラペラ。現在フランスにいても家の中でフランス語は必要ないくらい。 かつ3人の子供たちの日本語を保持するために、私が日本語を話さなければならないのは義務なのである。 …何が言いたいかと言うと…要するに私はフランス語を、今もってまともに操れないのである。
     フランスに来た時点ですぐに語学講座探しは始まった。で、すぐ見つかった。 移民難民などを対象にした成人教室。ところが何故か入れてもらえず、結局入れたのは 2年後!大喜びで通いだしたものの数ヵ月後には、工場で働くことになったので追い出された。
     一昨年現在いるところへ引っ越してきた。言葉がまともに話せなければ職に付けぬ。 都会なら日本関係の仕事があるかもしれないが、こんな田舎ではそんなモノは皆無で、 フランス人とハンディなしで戦わなければならない。以前住んでいた場所には言葉が喋れなくても 大丈夫な流れ作業工場があったが、それもなし。で、ここでも語学講座探し。何となくあるにはあったが、 曰く、学歴がありすぎるからダメ。仏滞在期間が長すぎるからダメ。あれでダメ、これでダメ …毎回毎回審査に数ヶ月以上かかり、大騒ぎをした挙句にダメ…って、フランス~ッ!  あんたやる気あんのかぁ~ッ! って、この国の『システムあっても機能せず』状態にもう慣れてきたから 怒る気も失せていたのだが。
     そしたら『捨てる神あれば拾う神あり』何とボランティアで教えてくれるという奇特なムッシュウが 出現したのですね。
     忙しい合間をぬってフランス語のお勉強が始まったのである…が、この真面目なお方、 まず『発音』からやると。40歳になって初めてやる私に、フランス人と同じ発音をせよと!  …日本人の方は即座に分かっていただけると思いますが、できる訳ネ~だろ~ッ、んなモン。 いくら先生の真似をしてもできない。「不可能だ」と言ったら「フランス語の辞書に『不可能』 という文字はない」…。こちとら口の筋肉の凝り固まっちまった中年のオバちゃんなんだよ、 小学生の子どもと一緒にするなぃ。
     というわけで、毎朝声を出して、発声練習ならぬ発音練習をしなければならないことに…先生、 やる気満々で、ありがたいんだけど…いつまで続けられるかなぁ。まあ、ガンバリます。

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うちの”日本・スペイン文化珍交流”   特別寄稿      菅藤 泉

@  6歳の娘が、日本の幼稚園に1ヶ月ほど通園した。毎朝、おはようの歌を皆で歌い 、
その後「みなさん、おはようございます」ということが、日本の幼稚園の習慣だ。 やはり彼女の行った幼稚園でもそうだった。
でも娘がいたクラスの担任の先生は、滞在1ヶ月 間、日本語のかわりに皆でスペイン語で挨拶しようと、娘になんと言うのか訪ねたらしい。娘のクラスの 子供たちが、廊下で夫の前を通るたびに、順番になんとスペイン語で挨拶してくれる。感激ですね。ただし うちの娘は、普通カタロニア語を話すので、皆に教えていたのは、実は「ブエノス・デイアス」ではなくて、 カタロニア語の「ボン・デイア」と言っていた。先生たちも子供たちもそうとは知らず、スクールバスの 運転手のおじさんにも「ボン・デイア」と言っていた。まっいいか。

@  夫がたまに肩や背中が凝ったり、足が疲れたとき、「あなたを焼きましょうか」と言って、お灸をする。 子供たちも軽いお灸がけっこう気に入っていて、4歳の娘はお姉ちゃんがしていると、自分の痛むところを 探している。約一年前、正座で5分間瞑想を家族で行っていた。今ではお灸が瞑想のかわり?いいえ、どっちかで 家族で東洋の麻薬をしているようだわ・・・

@  うちの家では、日本の家のように、靴を脱いであがるのだけど、アパートに入って、
7階まで上がってくるエレベーターの中で、夫はすでに靴のひもを解いている。夏は、上のシャツの ボタンまではずしているから、そのうち、ズボンまで脱ぐんじゃないかしら・・・

「ハーフを育てた時の日本語教育」として、記事を書きました。     かおる

「二年したら、必ず戻ってきます。」とパリへ絵の勉強に飛び立ったのは今から 20数年前。結局、めぐり合ったフランス人と結婚して女の子と男の子の二人の子供 の母になった。
ナント生まれの夫は大のパリ嫌い。新天地の太陽の町トゥールーズでお皿二枚の アパート暮らしから始まった。折角なのだから、トゥールーズ美術学校に通い始 めたのはいいが次々に妊娠、大きなお腹をかかえそれでも3年通った。日本に興味 のない夫を尻目に子供たちに日本語教育をする決心を固めていた。しかし、二人 目の子供ができるとそう簡単に日本へ帰れない。二年毎から四年毎。友達からは まるでオリンピックねと冷やかされた。
5歳児と2歳児を連れて日本へ、ひと月幼稚園に入れることに成功(その当時はなか なか大変だった)幼い息子の方はすぐに慣れ「ウルトラマン憲だよ。」と他の子 供たちと滑り台で一言言っては降りる遊びをしている。フランスに戻ってくるま では言葉なんて子供のうちはいくらでもとそう気にもしていなかった。戻ってみ ると、息子は半年もの間一言もしゃべらないという反動があらわれていた。もと もと口数の少ない子だったが、日本語から話し始めたのにフランス語だけの学校 は息子にとって宇宙のような世界だったのかもしれない。気の強い娘のほうはそ れまで
いつも「お手手つないで~」と歌いながら通っていた学校から帰ってくるなり「 ママ、ここはフランスなんだからもう日本語は話さない。」と宣言をしてしまっ たのだ。「いいわよ、ママは日本人なんだから日本語を話すわ。」とこっちも意 地になった。
この街には日本人は殆どいない居ても、日本に興味のない人たちばかりだった。 あれから15年、いまでも子供とのこの状態は続いている。他の人が聞くと不思議が る。20歳になった娘は慣れたもので何も感じないらしい 。彼女が18歳のときJRP(JAPAN RETURN PROGRAMME)のフランス代表として 日本語の「命と平和」の討論を宮崎、青森、さいたまでおこなった。日本語に自 信が付いたのか来年はシアトル大学から 慶応大学へ留学するという。息子の方は 今年数学系バカロレアの第三外国語で日本語を受ける予定だ。フランス語に支障 なく日本語を続けさせたいと考えた20年前、あれから私の両親も亡くなり日本へ帰 る機会は皆無に近くなった 。日本へ帰れば日本語なんて簡単に覚えるという安易な考えもできない中、無理 のない日本語会話を続けてきた。漫画やビデオカセットなんでも興味の引くもの は与えた。
今日も娘から漢字が少し入ったメールが来た。夫のほうは今でも「お手手だめ! 」という幼児語しか話せない。彼に関しては完全に失敗だ。必死で日本語教育と いうより、余裕のある、その場に合った環境作りをしたことが良かったと思って いる。